保育園の頃

憧れのお姉ちゃん

1970年、親戚のお姉ちゃんにあこがれていました。わたしが4歳くらいの頃です。いつもお洋服をお下がりでもらって、お姉ちゃんみたくなりたいって思っていました。疑似きょうだいというか、わたしにもお姉さんが欲しいと強く思っていました。

この頃、兄が通 う養護学校(現:特別支援学校)に兄と一緒に通っていました。母が私を保育園に入れ忘れていたのだそうです。わたしが最初にお友達になったのは障害児たちでした。車いす用のなだらかなスロープが 大好きでした。ある日、脳性麻痺のあるお友達を車椅子に乗せてスロープを降りようとしたのですが、背丈が小さかった わたしの姿が見えなかった母親たちは、車椅子だけが落ちてくるかのように見えたそうです。兄がいる教室に入ると、ク レヨンを何本も持って床にまで線を描いている子どもや、大声で騒いでいる子ども、両手と両足がだらんと下がったまま車椅子に乗って宙を見ている子ども、などみんな違っていて、その独特の雰囲気がわたしは好きでした。わたしは彼らが近所のお友達とはなんとなく違うことはわかっていたけれど、彼らが何を言いたいのか理解できたので、先生や親たちに彼らがどうして欲しいのかを伝えることができました。誰かの役に立っていることが嬉しくて、ちょっと得意気になっていました。


保育園に通い始めました

入園の年が定かではありませんが、わたしは地元の保育園に入園しました。兄が通っていた特別支援学校にいるような個性溢れる子どもはいなくて、みんな同じ服を着て、名札をつけていました。保育園では先生に嘘をついたり、お友達同士で喧嘩をしたり、悪口を言ったりしていました。障害児たちは言葉は話せませんが、いじめたり、嘘をついたりしませんでした。わたしは特別支援学校に戻りたいと思っていました。この頃は、兄妹で「おもしろい顔」をするのがブームでした。わたしは兄よりも背が伸びて、姉のような気持ちでいたのだと思います。祖父母も健在で、よく遊びに来てくれました。母は兄の世話で忙しかったので、わたしは祖母に育てらました。

料理やお掃除などの家事を丁寧に教えてくれたのは祖母でした。


パンダが手放せない

1972年、日中国交回復を記念して中国から贈られたジャイアントパンダのカンカンとランランが送られました。

兄8歳、妹のわたしは6歳の頃です。パンダを観るために、父が初めてわたしを上野動物園に連れていってくれました。大きなパンダのぬいぐるみを買ってもらい、それが片時も手放せなくなりました。家の中でも、外出してもパンダのぬいぐるみを肌身離さずもっていました。

この頃の兄は、面白い顔をしたりものまねをすることが大好きでした。兄が前に出て、わたしは後ろでパンダを抱きしめていますね。


笑顔が消え始める

カメラを向けて「笑って~」といわれても、あまり笑わなくなりました。

カメラを意識し始めたのか、それとも何かあったのか…残念ながら記憶に残っていません。わたしはすっかりお姉さんのような気分でいました。

「わたしがしっかりしなくちゃ」っていつも思って周囲の差別的な目から兄を守らなければならないと思っていました。兄のことは「お兄ちゃん」と呼んだことがありませでした。両親が兄を呼ぶように「ター君」と呼んでいました。近所の子どもたちからからかわれるようになっていたのかもしれません。いつもわたしが兄を守っていると思っていたので、自然に兄のことをニックネームで呼ぶようになっていました。


チック現象

口の中の形状が違うせいか、らりるれろ や さしすせそ の発音が難しい兄。テレビのことを「てぇーえぇーいー」と発音していました。わたしは赤ちゃんの頃 から一緒にいるので、自然に兄の「音」が何を意味するのか分かるようになり、お互いに「音」だけで会話をしていたようです。親には、わたしたちの会話はわからなかったそうです。わたしがいない時には、兄の気持ちが両親に通じ ないので、イライラした兄にチック現象がみられるようになりました。自分のあごを思いっきりこぶしで叩くのです。自分の気持ちが分かってもらえない、自分がしたいことができない、という 歯がゆさからの怒りやイライラした気持ちがあったのでしょう。

母はいつも「だめでしょ、またやった!」と強く叱っていました。兄は、叱られる度に、こぶしで叩く力が大きくなっていきました。わたしは、いつか歯が折れてボロボロになってしまうのではないかと心配をしていました。