30代 家族と向き合う

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イ ギリスで働いていた頃に話が少し戻りますが、F1レースのチケットを友人が手に入れたので、シルバーストーン・サーキットに行きました。
セレブが集まる華やかな世界に足を踏み入れ、その世界はきらびやかで、とても魅力的に見えました。この時、
F1レーサーであったデイモン・ヒルの長男がダウン症であることを知りました。ダウン症協会のブースが出展していて、ダウン症の理解を促すパンフレットを配り、寄付を募っていました。ご夫婦そろって慈善事業に積極的で、1999年のイギリスGPで売り上げたヒルブランドの売上は全額ダウン症の協会に寄付されました。そのブースを訪れたことは、わたしにとって衝撃的でした。
日本では、兄のことを同級生や同僚にずっと隠していて、本当に信頼できる友人たちにしか打ち明けて来なかったのに、海外ではこんなにオープンにしているのかと思いショックを受けました。このことがきっかけとなり、1996年10月28日に「ダウン症児・者の兄弟姉妹ネットワーク」を立ち上げま した。


ディズニーランド

1996年、兄32歳、妹30歳。全国の障害者のきょうだいたちとメールで話すようになり、障害のある兄弟姉妹と一緒にショッピングに行ったり、外食をしていることを知りました。

わたしは兄とは幼い頃の家族旅行以来、どこにも一緒に行ったことがありませんでした。そこで、親子四人で東京ディズニーランドにいきました。兄は歩けますが、来場者が歩くスピードにはついていけないので車椅子を借りました。この時が最初で最後の家族四人でいったディズニーランドでした。もっと早いうちから遊びに行っていれば良かったと後悔したこともあります。でも、一回でも行けたから良かったのかもしれませんね。


キャリアを伸ばすことに注力

1997年、兄33歳、妹31歳。わたしの仕事は順調に進み、海外出張や海外旅行などを楽しむ余裕も出てきました。わたしが立ち上げたメーリングリストでは全国のきょうだいが活発に意見交換をしていました。この頃は、まだお互いに会って話す余裕がありませんでした。兄の作業所で日帰りバス旅行などがあると、母の代わりに私が兄と一緒に参加していました。母は徐々に体力が落ちて、行事に参加しなくなっていました。きょうだいの立場で参加している人はほかにはいませんでした。


わだかまりを解消

1998年、兄34歳、妹32歳。ダウン症だけではなく、小児麻痺、知的障害、重症心身、自閉症、難病など、様々な障害や疾患を持つ兄弟姉妹がいる人達とメッセージで意見交換をしながら、親に対するわだかまりが少しずつ解けていきました。兄 は、人が哀しい気持ちになっていたり、怒りの感情を抱いていると、すぐにそれを察知して、先回りしておどけたり、謝ったり、仲裁に入ろうとしていることに 気が付きました。

幼い頃からそうして私も兄に守られていたのかもしれない、そう思うようになりました。ウェブサイトを作り、今までの気持ちを文章にして書いたことで、心の中に溜まっていたわだかまりや、勘違いや、思い込みを一気に吐き出しました。それらを両親に見せた時、両親は動揺していましたが、わたしは気持ちがすっきりしました。この年、母と初めて二人だけで京都に旅行にいきました。これまでのことをお互いに時間をかけて話しました。


テレビ取材

2000年、兄36歳、妹34歳。わたしは各地で講演をしたり、ネット会議室できょうだいからの質問に答えたり相談にのっていました。ある日、関西テレビ局から取材の申し込みがありました。数日間密着取材を受け、家族の こと、兄のこと、きょうだいとしての想いを語りました。当時から私の主張は、「きょうだいとしての悩みや苦しみを吐き出したら次に進みたい。笑って幸せ だなと思える家族でありたい」と思っていたので、そう話しました。しかし、残念ながら当時のディレクターの意向と合わず、すべてカットになり私と家族のことはオンエアされませんでした。理由は 「幸せそうだったから」だそうです。

障害者のきょうだいは、悩み、苦しみ、哀しみ、どうしても癒されない暗い気持ちでいっぱいになっている、というところをディレクターは強調したかったのでしょう。今でもわあしは、負の感情を吐き出すことは必要だが、それだけで終わるのはもったいない、と思っています。せっかく自分が 選んだ家族と他では味わえない経験をしてきたのですから、それを財産だと思って前に向く形で次世代に継承していきたいのです。時代はいまようやく、明るい 介護、楽ちん介護を提唱するようになってきました。家族に障害があっても、それぞれが自立して幸せを追求することが、これからは求められていくのではないか、と話しましたが、当時のメディアには受け入れてもらえませんでした。


母の入院

2001年、兄37歳、妹35歳。久しぶりに実家に帰ったら母の体重が36kgになっていました。何を話しても上の空で、様子がおかしくて、食事も摂れなくなっていました。父も兄も、母の様子がおかしいことには気づいていましたが、診察を受けさせるところまでは思いつかなかったようでした。わたしはすぐに救急車を呼び、病院に緊急搬送され、そのまま入院となりました。その数か月前に吐血して入院した父は「もう会社をこれ以上休めないから、お前がどうにかしてくれ」とわたしに介護のすべてを託しました。慣れない家事が続き、いきなり母親代わりになって兄の作業所の連絡帳を書かなければならなくて当惑しました。作業所からのお知らせを読んで必要なモノを準備する作業は、まるで幼稚園の子どもを育てているようでした。当時、部下を持ち幾つかの部署を兼務して管理職を担っていたわたしは、自分の仕事も両立させなければなりませんでした。今ほどインターネットの検索が充実していなかったので、福祉サービスの情報を得るためには、地域の役所に行って福祉課に相談するしか方法がありませんでした。そこで福祉科の職員が丁寧に説明してくれたのですが、彼が紹介してくれた情報は、

・心身障がい者(児)ホームヘルプサービス

・高齢者ホームヘルプサービス

・有償家事・介護の援助サービス

の三つでした。

この時、まだ介護保険制度は施行されていませんでした。地域で保証する介護制度は65歳以上の高齢者もしくは障がい者本人のみが対象でその家族は対象外であると言われ、「あなたのお母さんが倒れたからといって福祉サービスが母親代わりをすることはできませんよ」と言われたことがとてもショックでした。

母はこの時64歳だったので高齢者ホームヘルプサービスを使うことができなかったのです。

一番大変だったのは、仕事をしながら母親がやっていた家事をすべて一人でこなすことでした。今になってみれば、働く母親はこれをすべてこなしているのだから、辛いとは言えませんが、当時のわたしはまだ自分のことで精いっぱいだったのです。この時心理的にサポートしてくれたのは、インターネットでつながっていた「きょうだい」たちでした。励ましてくれる、応援してくれる、それだけで一日をなんとか乗り越えることができました。


挫折

母が退院し、落ち着いてきた頃、全国のきょうだいたちとネットワークで繋がりを広め、障害者の親の会に招かれて講演をさせていただく機会を得ました。この頃から「きょうだいに対する支援」を訴える活動を始めました。
顔を合わせず、メールでだけコミュニケーションをとっていたので、徐々に「自分の方がつらい経験をしている」「ダウン症は軽くていいよね」「幸せな話など聞きたくない」そういった声がきょうだいの中から聞こえるようになりました。それでも福祉や障害を暗いこと、悲しいこと、辛いこととして持ち続けているだけでは前に進めない、何をすればいいのかわからないけれど、もっと明るく話したい、そう訴えるうちに、きょうだいたちとの交流に亀裂が生じ始め、「それは偽善だ」「あなたは偽善者だ」と言われ、何もできなくなりました。時期を同じくして父親が癌闘病を始めたので、思い切ってメールで意見交換をする活動を休止することにしました。


父の癌闘病

2003年、兄39歳、妹37歳。ガン闘病を経た父が他界しました。
兄は、「父上、39年間ボクを育ててくれ てありがとうございました。ボクはだいじょうぶですからね」といって親指を立ててOKサインを父に送りました。それまで昏睡状態だった父は、その時だけ目をあけて、にっこりと笑顔を見せてくれました。それが、 父が私たちに見せた最期の笑顔でした。
誰が教えたわけでもなく、兄は立派に感謝の言葉を父に伝えることができました。わたしはそれまで父と距離を置いていたので、素直 にありがとうと言えなかったことを、いまでも後悔しています。でもそれができなかったのは、私がまだいろいろな ことにわだかまりをもっていて、自分が抱えている辛さを環境や人のせいにして生きていたからだったのかもしれません。


告知と看取り

父は64歳という若さで先に旅立ちました。当時は未だ癌を告知するということは、大きな決断を下さなければならないと捉えられていた時代でした。母は絶対に夫には告知しないと言い張って、胃潰瘍だったということにしていました。しかし父が亡くなった後、父の部屋を掃除していたら、がんに関する書籍が沢山出てきました。家で死ぬためにはどうしたらいいのかという本もあり、幾つも線が引いてありました。父は自分が癌であることも知っていて、最期は自宅に戻ってきたかったのでしょう。父は病院で亡くなったので、父の最後の望みをひとつも叶えてあげられないままだったことにひどく後悔し、わたしは五年以上苦しみました。ここからターミナルケアやがん闘病、グリーフケアに関することを勉強し始めました。