10代 思春期

中学1年生

1979年、兄15歳、妹13歳。中学の入学式に父が撮影した写真です。まったく笑わなくなりました。父が「そんなに笑わないなら、もうお父さんはお前の写真を撮りたくない」と言われたことがとてもショックだったのですが、それを顔に出さず、口も利きませんでした。この頃は、一人で部屋に閉じこもることが多く、両親と兄が同じ部屋でテレビの番組を見ていても、私は別の部屋で同じ番組を見て笑ってい る。そんな毎日でした。同じ家にいるのに、私だけ疎外されているような気持ちになっていました。母はこの時、「思春期だからきっと一人になりたいのだろう」と思って声をかけなかったそうです。兄がどんな生活を送っているのか、関心がなくなり、自分のことで精いっぱいになり始めました。

中学2年生

1980年、兄16歳、妹14歳。メガネからコンタクトにしました。それでもほとんど笑った写真がありません。保健体育の授業で、担任の女性教師が次のように話しました。「ダ ウン症候群という病気を知っていますか?駅やスーパーでよくみかけるでしょう?同じ顔をしていて、鼻が低くて、目がつりあがっていて、舌足らずでしゃべ り、ぶつぶつ独り言を言いながら歩いている子たちのことです。お母さんの高齢出産が原因で生まれると言われているから、皆さんも早く結婚して子供を産んで おいたほうがいいですよ」

とんでもない表現に、わたしはショックを受け、この教師が大嫌いになりました。

中学3年

1981年、兄17歳、妹15歳。母が初めて、兄を産んだ瞬間の出来事や、夢や希望が崩れてショックだったこと、兄と二人で心中しようとした話などを聞かされました。そして兄は20歳まで生きられないから家族が守ってあげなければならないと、この本を渡されました。21番目の染色体が1つ多いだけ。ただそれだけでなぜ兄とわたしはこれほどまでに違うのかが、本を読んでも理解できませんでした。うちには若くして死んでしまう家族がいる。その後どうすればいいんだろう。家族は崩壊するんじゃないか、母も一緒に死んでしまうだろう。わたしはどうやって生きていけばいいのだろう。色々な妄想が頭の中を駆け巡り、物事を悪い方にばかり考えていました。近所にも中学にもダウン症を持つ「きょうだい」はいなかったので、自分ひとりで悩んでいました。やがて、きっと誰も私の気持ちはわかってくれないんだ、と思い込むようになってきました。

健常者の社会で生きる

1983年、兄19歳、妹17歳の頃。兄は高校を卒業して、近くの作業所で就労支援を受け始めました。私はまだ高2でした。

・わたしは障がい者の家族の中の一員ではなく、健常者としての人生を歩みたい。

・ダウン症がある兄の妹として生まれてきたのは、わたしが選んだわけではない。

・兄がダウン症になったから、いけないんだ。

・福祉なんて、うちの家族のこと、何もサポートしてくれないじゃないか。

・わたしと同じように悩んでいる人なんてきっと世の中にいないだろう

こ の頃は、ずっとこんな風に考えていました。当時は私が好んでこの家に生まれてきたんじゃないと思っ ていたし、親にそう言って悲しませたこともありました。社会福祉、福祉関係の仕事、ボランティア、障害者という言葉が大嫌いでした。どんなに福祉制度が充実しても、障害のある兄にとってプラスになろうとも、わたしは社会福祉以外の分野で生きていこうと決めていました。

高校3年

1984年、兄20歳、妹18歳。兄に肺炎の疑いがあると診断された緊急入院をしました。検査の結果、結核性髄膜炎と診断されました。家族全員 が、「本に書いてあった通り20歳までが寿命だったんだ」と覚悟しました。骨髄から骨髄液を採取する時には、母と私で兄の体をおさえました。兄は泣き言ひとつあげませんでし た。母と私の方が涙をぽろぽろ流してしまったほどです。約一か月強の入院生活で、母は身体を壊してしまい、兄と同じ病室で寝泊まりすることになりました。 私は、二人を見つめながら、このまま二人ともいなくなってしまうのではないか、と思っていました。同時期に大好きな祖母がくも膜下出血で亡くなりました。兄は生還し、爪が伸び始めました。20歳まで爪を一度も切ったことがなかったのだそうです。母は、おばあちゃんが最期の力を遺していってくれたんだ、と泣いていました。