40代 施設入所と通い介護

ショートスティ

母の認知度が更に低下して、自分がどこにいるのかわからなくなってきました。時折、記憶が戻るのですが、ここはどこか、わかる?と聞くと、ここは〇〇です、と自分の生家について話すのです。2009年3月から5月にかけて、TIA発作を発症した母は週三回、救急車で運ばれていました。その様子をみていたケアマネさんが「ショート(スティ)に入っていただいて、お母様が入居できる施設を探してみませんか?」と声をかけてくださいました。当時は自宅の周辺にショートスティができる施設がなく、車で1時間以上かかる隣県にある「病院を併設している施設」に3ヶ月入ることになりました。

下着、洋服、コップ、タオル・・・すべての持ち物に母の名前を書いて準備をしながら、なんだよ、これ、子どもを育ててるみたいじゃない、って思ったら、また切なくなりました。自分一人で母を高齢者施設に入れることを決めていいんだろうか、母が気に入る施設を探せるだろうか、兄と離ればなれになることを母は納得してくれるだろうか、と様々な不安が押し寄せてきました。ショートスティ先で一番ショックだったのは、それまでなんとかトイレに自力で行っていた母がオムツをつけられ、車いすに座っていたことです。おむつの交換をする際には、娘さんは外に出てくださいと言われたのですが、ドアの小窓からその様子を見ていました。おむつ交換をされている母は大きな赤ちゃんみたいで、とてもとても見ていられませんでした。一緒にいた友人に「強くなってください」といわれたのですが、これ以上、どうやってもっと強くならなくちゃいけないの?と思ってしまいました。

あなたはがんばってる

当時、ある唄が流行っていました。ショートスティ先の施設に、その歌詞が貼られていました。

それは、認知症を患った母親が子供に向けて書いたメッセージに曲をつけたものでした。

職員さんは「感動するわね」と絶賛していましたが、わたしはその歌詞を読んだ時に、身震いがしてしまいました。

もっともっとやらなくちゃいけないんだ、まだまだがんばらなくちゃいけないんだ、母がわたしにしてくれたように、わたしが母の面倒を見る番なんだ、子育ては希望を持つが、介護に希望はあるんだろうか、生きる人と、老いる人を同じ目線でみるってことか、そう感じて、胸の奥がズキズキしました。

ある朝、その唄がNHKの番組で取り上げられました。司会者もゲストも口々に

「素晴らしい唄ですね」、「本当にこころから感動しました」、「介護をしているお子さんに聴いてもらいたいですね」

と絶賛していました。

わたしは、怒りのような震える感情でいっぱいになり、自然に涙も出てきました。その時です!ゲストの一人が、カメラに向かって「いま在宅で介護をしている皆さん、あなたたちは、やるだけやってますよ。だから気にすることありません。もう十分に頑張っているんですからね。大丈夫ですよ!」と、大きなな声でカメラを見つめて叫んでくれたのです。スタジオは騒然となり、カメラは揺れ、司会者はオロオロ、ゲストは口を開けていました。でも、わたしは、その方に心から「ありがとうございます」と言ってテレビに向かって頭を下げました。

母が施設に入所

2009年、国 際フォーラムで開催されていた第一回オヤノコトセミナーに友人と行きました。そこである有料老人ホームがブース出展をしていました。そこに母を連れて行っ たら、すぐに気に入り、とんとん拍子で話が決まり、母はその施設に入所することになりました。この時、母は要介護4になっていました。気に入らないことに は罵声を上げて、顔をくしゃくしゃにして怒っていました。わたしも家族介護者として、母はこうしてきた、あぁしてきた、と家庭でやってきたことを100% 介護施設でもやってほしいと思いすぎてクレームを言いすぎていました。この頃は、わたしも母も怒りでいっぱいでした。当時のヘルパーの皆様には申し訳な かったと思います。

兄も施設に入所

わたしは兄と同居して、ふたりで生きていこうとおもっていました。しかし、兄の幼馴染のお母様が、お兄さんも障がい者施設に入所させなさい、と私を説得するためにわざわざ何時間もかけて東京に足を運んでくれました。私は何度もそのアドバイスを拒絶しました。これ以上家族がバラバラになることを、わたしが選択して決定することは、とても重たすぎて、これ以上決められない、そう思ったからです。何度も説得されるうちに、兄とこのまま暮らしていたら私の人生が無くなり、兄の成長にも影響を与えると言われて、決心しました。2009年8月、兄が入所する施設が決まりました。兄を送る車内で、ふたりで唄を歌いながら大泣きしました。本当にこれで、家族がばらばらになる。わたしが決めた。母も兄も一緒に暮らしていたのに。わたしが介護をして、その結果二人を引き離したんだ。すべてが私のせいだと思うようになりました。重圧と寂しさで本当にどうしようもなく辛い時期でした

適応障害と鬱病

2009年8月、兄と同じ椎間板ヘルニアを発症し手術をしました。それから半年間、痛みと痺れと闘いながら仕事を続けていましたが、1週間眠れない日が何か月も続いたり、週末はソファに寝たまま夕方を迎える、そんな日が続いたので、心療内科を受診しました。すると、適応障害であると告げられました。 母と兄が其々の施設に入所した。しかし家には二人の荷物や家具や食器がそのまま残されている。その中で暮らし始めたことで、環境の変化に適応できなくなっている。そう診断されました。12月、鬱病を発症し1か月休職しました。そして兄が住む学舎のクリスマス会に参加して、宿泊しました。兄と一緒に生活する様々な障害のある方々が私を支え、包み込んでくれました。わたしは彼らのおかげで徐々に回復して2009年1月には会社復帰をすることが出来ました。

兄 と鴨川へ二人で旅行に言ったり、横浜のズーラシアに連れて行ったりしました。一人旅をして、徐々に気持ちも穏やかになってきました。復職後は、投薬治療とカウンセリングを受けていました。やがて認知 行動治療の分厚い本を買ってきて、それを読みながら自分で自分をカウンセリングしているうちに、減薬に成功しました。睡眠薬を飲むことをやめたときに、夫 と出逢い、2011年10月に結婚しました。わたしは一生結婚はできないと諦めていたし、母と兄を支える大黒柱の役目があるという責任感でいっぱいでし た。しかし、夫が「これからは一人で背負わなくてもいいよ」と言ってくれたことで、努力をし続けていれば、いつか必ず良いことがあるということを心の底か ら実感しました。夫には、第三者からの視点で様々な気づきを与えてもらっています。

通い介護

2015年1月。年末年始や母・兄の誕生日、夏休みなどに、家族がそろって過ごす「通い介護」を続けています。夫のサポートもあり、車いすの介助がとても楽になりました。いままでは、運転も買物も私が一人でやっていて、母の車椅子を押しながら兄が道路に飛び出さないか注意して見守っていたり、時には兄の手を引きながら車いすを押していました。それが結婚してからは、夫が兄と手を繋いで歩いてくれたり、母の車椅子を押してくれます。運転や買い物のしてくれて、男性の力って本当に、本当に必要だって思いました。また、私はもうひとりのお母さんみたくなっていて、母と兄の世話を焼き過ぎていることを夫から注意してもらいました。夫は母や兄と、ほどよい距離を保ちながら、なだめたり、気持ちを伝える時には、ゆっくりとした口調で説明しながら話します。そうすると母も兄も気持ちが穏やかになっていきます。それぞれの居場所で自分の生き方を見つけて前向きに過ごしていこうと思います。

これから

2015年、夫に聞いてみました。初めて兄にあった時には正直どう思った?すると夫は、『今だから言うけど、悪い意味じゃないよ、それでも、怖かったよ。ター君が怖いんじゃないよ。どう接していいのかわからないっていう気持ちが怖いっていう表現になっちゃうんだ』 私は、この言葉を聞いてハッとしました。多くの人が「わからない、だから怖い」「知らない、だから関わらない」という気持ちを持つことは自然なことなんだということに気が付いたのです。夫は続けてこういいました『でも、ター君に会ってから障害者のイメージがすごく変わった。ター君自身も世間の視線とか態度からすごく嫌な思いをしていると思う。』 知らないのであれば、知ること、わからないのであれば、わかることで、次のステップに行けると思うのです。きょうだい自身も知らないことが山ほどあります。漠然とした不安を抱えて、目の前に起きることに何とか対処していくしかなくて、やがては自分の心身をも傷つけてしまうことがあります。だからこそ、どうすればいいのか、最初の一歩がわかるようにしておくことが大事だと思います。CANの活動を通じて、きょうだい自身への情報共有だけではなく、若い親御さんたちとの交流を増やし、世間に対しても障害やその家族について知っていただく機会を増やせるよう、活動を広げていきたいと思います。そして、障害がある、ないに関わらず、すべての人が違っていていいのだということ、いろんな思いがあっていいのだということ、マイナスの感情や想いは蓋をして溜め込まないで、吐き出してしまおうということ、を伝えていきたいと思います。