20代 成長期

専門学校生

1985年、妹19歳。通訳になりたくて通訳ガイド養成所という専門学校を選び、アメリカに語学留学に行きました。ホストファミリーに見守られた1ヵ月の中で刺激を受けた新しい経験でした。もっと世界中の人に会って話がしたいと思うようになりました。カリフォルニア州にあるサクラメントという小さな町でしたが、障害者をあまり見かけた記憶がありません。現地で長期間生活しなければ気が付かないのかもしれない、と思っていました。


サポートできない

語学留学を終えたあ る日、駅のホームの階段の上で車椅子に乗った方が下を見つめていました。当時は車椅子の乗降機はまだ駅に設置されていない時代です。周りの人に声をかけて 降ろしてあげよう、そう咄嗟に思ったのですが、身体が全く動きませんでした。声も出ません。やがて、大学生らしき若者とビジネスマンが申し合わせたよう に、せーのと掛け声をかけてその車椅子を持って下におろし始めました。ようやく動くことが出来た私は、邪魔にならないように階段の端に身を寄せてその光景 をじっと見つめていました。しばらくその場から離れることが出来なかったことを今でも覚えています。障がい者の兄がいる家庭で育ったのに、サポートの一つもできない自分になっていたなんて。たまに実家に帰ると兄がわたしに敬語で話すようになっていました。 それだけ私は家族とのコミュニケーションを自分で絶って、拒絶して、それなのに構ってほしい、気が付いてほしいと心の奥底では思っていたのです。

家を出る

1987年、妹21歳。専門学校を出てから就職を選ばず、夜間大学に進学しました。社会人の先輩と経済についての会話に全くついていけなかったからです。大学1年の頃、母から「家を出るように」と告げられました。わたしが父親との折り合いがうまくいかなくなり、このままでは兄が情緒不安定になる、わたしが夜間大学にいっているから昼夜が逆転するため兄が寝不足になる、というのが理由でした。私はまだ就職をしていなかったので、兄の生活を安定させるだけのためにどうして私が家を出なければならないのか、まったく意味がわかりませんでした。しかし、どうしても出て行ってほしいと母に懇願されて、やむなく家を出て、アルバイトをしながら夜間大学に通う生活が始まりました。

社会人になる

夜間大学に通っていたわたしは、家賃も学費も自分で支払わなければならなかったので、カーテンも家電もない生活からスタートしました。布団だけでは寒いので、布団の周りを段ボールで囲って寝ました。アルバイト先の会社が東京から撤退し、何とかしてお金を稼がなければ生きていけなくなり、就職情報誌をみて、大学のすぐ真裏にある会社に就職しました。この時に、一番最初に決めたのは「なにがあっても三年は頑張って働こう」という決意でした。秘書から営業補佐に異動し、最終的にはグアムとサイパン支店との交渉を任されるようになりました。

25歳の転機

1991年、兄27歳、妹25歳。就 職して3年近く経った頃、海外で働くチャンスを得ました。25歳から28歳までの二年半をロンドンで過ごしました。それまでの価値感がガ ラリと変わり自己肯定間が芽生えました。自分の家族のことを知らない、知らせなくていい社会の中で、のびのびと自分のために時間を使うことが出来ました。常に相手に自分の考えを示し、意見を述べるときにはまず根拠を述べることを教えられ、それぞれの仕事には領域があるので、それを脅かしてはならないということも学びました。この頃、家族とは断絶状態 でした。母は「なぜ娘は自分(母)と同じように苦しんでくれないんだろう、裏切られた」と思っていたそうです。わたしはそんな母の考え方が大嫌いでした。日本では、常に母が気弱になると電話をかけてきて、わたしが夜中でも実家に帰るという生活でしたが、イギリスでは、そういった制約も押し付けも一切なく、毎日が刺激的で、新しいことを学んでいくことがとてもエキサイティングで、ようやく自由になれたと思いました。

兄との距離が広がる

1994年、兄30歳、妹28 歳。わたしは日本に帰国し、再就職しました。阪神大震災やオウム真理教の事件などが相次いで、金融業界ではバブル後の不良債権の処理に大騒ぎになっていました。わたしは、なるべく実家から遠いところに住み、仕事のキャリアを積むことに専念していました。この頃は、兄がどんな生活をしていたの かまったく覚えていません。兄や両親の生活にまったく興味がなく、たまに実家に帰った時に、兄の作業所での様子を母から聞いても、聞き流すように返事をし ていました。兄は、わたしに対して敬語を使い、遠慮していました。