40代 在宅介護

母が倒れる

2007年、兄43歳、妹41歳。父が亡くなって数年後、母が歩くときに前のめりに小走りになり始めました。おかしいな・・とは思っていましたが、一人暮らしをしていた私は、たまに実家に帰り炊事洗濯を手伝う程度でした。1月に玄関先で母が倒れ救助された話を聞き、同居を決意しました。5月のある日、母がかかりつ けの病院から帰る途中に転倒し、左肩脱臼複雑骨折をして入院しました。兄をショートスティさせて、平日は仕事をしながら、夜は病院に母を見舞う生活が続きました。やがてショートスティができなくなると、福祉事務所に駆け込み、家事援助をしてくれるサービスを探しました。そこで夕食配達と見守りのサービスを提供している事業所と出会い、兄の夕食をお願いできたので、わたしは心置きなく残業をするおkとができました。

8月、母が退院し、9月に初めてヘルパーさんが入りました。兄は作業所で「僕はお母さんのためにお手伝いをして助けるんだ」と言っていたと連絡帳に書いてありました。そして、「僕がマッサージをしても母は治らない」と泣くようになりました。作業所の余暇活動でポニーに乗ることがあったのですが、母を喜ばせたい一心で兄はポニーに乗ったそうです。昼間はヘルパーさんが入りますが、早朝と夜間はわたしが全面介助をするようになり、まったく眠れない日々が続きました。11月、実家の近くにマンションを借りて引っ越してきました。実は、わたしは幼い頃にいじめられた経験がフラッシュバックするので、実家には帰ってきたくありませんでした。しかし、誰もそんな気持ちを分かってくれる人はいませんでした。わたしは、母が身動きが取れなくなったことに戸惑いながらも、時には実家に泊まりながら看病とリハビリの送り迎え、病院への送迎、入浴介助などをサポートしはじめ ました。しばらく兄の生活から離れていた私は、なにもわからないまま、少しずつ二人の生活の中に入りこむ形となりました。毎週土曜日は、母と兄を連れて、 眼科⇒歯医者⇒耳鼻科⇒内科のはしごでした。

看病から介助へ

2008 年、兄44歳、妹42歳。母がみるみる痩せていきました。ヘルパーさんが作った食事は母の分だけだったので、兄が作業所から戻ると母が自分の夕食を兄に食べさせていたのです。 要介護度は2から3に上がり、兄が大声をあげて帰ってくるようになりました。ストレスが爆発してきたのでしょう。同時期に、兄が椎間板ヘルニアであると診 断され、整骨院にも通い始めました。もしかしたら、これから先は旅行に行けなくなるかもしれない…と思ったので、兄を葛西臨海水族館や近所の土手に連れて行って二人で過ごす時間も大切に持つようになりました。11月には沖縄に兄とふたりだけで初めて旅行に行きました。しかし12月頃からは、兄が無気力になっていきました。当初は、母がリハビリに通えばまた左肩も動いて元気になると思っていました。足腰を鍛えればきっと数か月後には、また元通りの生活に戻れる。そう信じていま した。しかし、一か月、三か月、半年、一年経っても、母の容態はよくなりませんでした。トイレにはまだ自力で杖を突いて行っていたので、トイレ介助をして いない頃はまだ楽でした。この頃の入浴介助は、母も自力で浴槽をまたげたので、少し支える程度でした。母の背中を流しながら、昔の話をしたり、ゆっくりと した時間を過ごしました。こんな風に母の背中を洗い流す日が来てしまったんだなぁと、何となく悲しい気持ちになっていました。

介護かもしれない

母の様子は日を追うごとにひどくなっていきました。天井を見つめたまま何も話さなくなったり、私のことを「だれ?」と言って脅えたりするようになりました。この頃、母は11種類もの鬱病の薬を飲んでいました。投薬の管理をするのは私の役目でした。もらってきた薬は一回分ことに仕分けされていましたが、それをお薬カレンダーの中にいれて、飲み忘れが無いようにしました。それでもお昼の薬を飲み忘れてしまい、飲まなかった薬が溜まったりして、バランスが崩れてきました。母はだんだん認知力が低下していくのが目に見えてわかりました。わたしはまだ40代前半で、仕事もし ていて、やりたいこともたくさんあって、こんなに早く母親の介護をするなんてありえない!と思っていました。もう少し経てば、ある朝、「おはよう、もう大丈夫よ」って母が言うんじゃないか。そう思っているうちに、二年が経過していました。母の記憶はどんどん薄れて行き、顔つきも変わり、悪態もつき罵声を飛ばすようになりました。この罵声は、本当に聴きたくない言葉ばかりです。介護者の気が滅入ってしまうのもわかります。一日に何度も倒れて救急車を呼ぶ日が続き、とうとうケアマ ネージャをお願いして、介護認定の家庭訪問を受けました。当時の母は限りなく4に近い3であると言われました。当時はその意味がよくわかりませんでした が、ケアマネージャさんが「要介護3ですね。このままだと4になるでしょう」と告げた瞬間の衝撃は、今でも忘れられません。「あぁ、やっぱり介護が始まっちゃったんだ」そう思いました。

兄の親代わり

困っ たのは、兄の作業所とのやりとりでした。連絡帳があって、毎日の兄の生活の様子を職員の方が書いてくれます。そこに私も書き込んで交換するのですが、まだ 結婚も子育てもしたことの無いわたしにとっては、どうしていいのかわからずとても戸惑いました。朝は5時に起床して5時半に実家に行き、兄を起こして朝食 を作り、兄のひげをそって、髪を整え、荷物の準備をして連絡帳をチェックして作 業所に送り届ける。その間、母は食事を済ませぼーっとテレビを見ているので、簡単に掃除を済ませて、訪問看護のヘルパーさん宛ての連絡帳に今朝の母の様子 と投薬の状況、便通の状況を書き入れて会社に行く。そ れが私の日常になりました。昼間は、訪問介護を入れられるだけ入れますが、4時になると兄が作業所から帰宅します。ヘルパーさんがいてくれるのは4時半ま で。私が遅番のシフトを終えて スーパーで自分と兄の食事の買い物を済ませて帰ると夜8時を過ぎることが多く、兄はいつもお腹をすかせていました。帰宅すると母がうつっぷせで倒れていた り、兄が泣きながら「僕ではだめなんだ、僕ではどうしようもない」と泣いていました。わたしも泣きながら母を背負ってベッ ドに乗せたり、どうしようもない時には救急車を呼ぶ、そんな毎日が続いていました。

兄も苦しい

2009年1月、兄45歳、妹43歳。母がベランダで倒れて顔が大きく腫れあがりました。兄は一人で介助しようとおもったようですが「僕には力が無かったんだ」と泣きじゃくっていました。兄は、自動販売機を杖で叩いたり、作業所で乱暴な言葉を使ったり、大声で泣き出すことが多くなりました。とても情緒不安定な時期でした。兄の脳波を調べてもらったら、アルツハイマーの初期症状が出ているのではないかと言われて、本当にショックを受けました。後で、それは誤診であったことがわかりました。わたしも毎日泣きながら生活していました。兄は、自分の部屋を片付けなくなってきました。常に整理整頓をしていた兄の部屋が壊れていくのを見ながら、何もできないことがつらかったです。私も体調が悪くなり、兄が私を心配して泣くのですが、わたしにはその泣き声が耐えられなくて大声をあげてしまう、という悪循環の毎日でした。

近所の方々のサポート

あまりにも頻繁に救急車を呼ぶので、マンションの管理人さんや、お隣さん、近所のお米屋さん、お蕎麦やさん、工場の社長さんなどが、「どうしたんだ?」って声をかけてくれるようになりました。毎朝マンションから実家に通う途中に会う工場の社長さんは、「おい、寄ってけ」といっ て缶コーヒーをおごってくれました。そのたった5分の会話が、私にとっては心の底から救われた時間で、ほんのちょっとほっこりとするだけで、よし、今朝は倒れていても動じないぞっ て思ったり、今日は元気で過ごせますようにって一呼吸おくことができました。近所の方々のサポートに心から感謝しています。

罪滅ぼし

母が在宅介護を余儀なくなれて、これは介護なんだ、と認識した時に、父のことを思い出しました。癌闘病で2年半も病院と自宅を往復していた父に、私は何もしなかった。たまに見舞いに行く程度だった。そのことを後悔する気持ちから、母の介護は父の分までしているつもりでしっかりと介護をしよう、そう決めました。しかし、今になって思えば、こういった自分ひとりでなんとかしようという強い想いが、自分の心身を弱らせ、疲れていることに気づかず、倒れる寸前まで介護を背負ってしまうことになります。こんなときに、自分の思いを誰かに聞いてもらえたら、そっと寄り添ってもらえたら、自分の頑固さに気が付いて、自分と向き合うことがもう少し早く出来ていたのではないかと思います。

デイケアはイヤ

「昼間だけでもデイケアに行ってくれないかな?」とお願いするわたし。

「そんなとこ、老人の幼稚園みたいでイヤだ」と悪態をつく母。

ケアマネさんが説得しても、わたしがお願いしても、母はデイケアに行ってくれませんでした。ある日、会社に行くためにバス停に立っていました。すると、目の前を幼稚園のバスが走り去っていきました。園児たちは意気揚々と楽しそうな笑顔でした。その直後にデイケアのバスが通り過ぎました。みんなどこをみているのかわからない表情で外を眺めていました。私が待っていたバスが来て乗り込むと、運転手さんに「だいじょうぶですか?」と声をかけられました。母が行きたくないわけがわかった気がしました。とっても切ない朝でした。